紫式部日記

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紫式部日記:第二章 寛弘五年(1008年) 冬の記
12 里下がりしての述懐 冒頭

朗読:田中洋子

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口語訳

 (中宮様のいらっしゃる)御前の池に、水鳥どもが日に日に多くなってゆくのを見い見い、(中宮様が)宮中にお帰りにならないうちに雪が降ったらいいな、このお庭の辺りがどんなに趣深く見えることだろう、と思っているうちに、ほんの少し、実家(里)に退出している間に、2日ほど経って雪が降ってしまうのだもの!見所もない実家の木立を見るにつけても、ぐちゃぐちゃと思いが乱れて・・・、(夫の死後)何もすることがなく、手持ち無沙汰で物思いにふけりながら暮らしていて、花鳥の美しさも、春秋で移り変わる空の様子、月の光、霜、雪を見てはその季節だなと判断して、「いかにやいかに」という歌の言葉ではないけれど、将来の心細さを解消する手立てもなかったけれど、ちょっとした物語などについて、ちょっと語り合える人で同じような心を持った人などとはしみじみと手紙をやり取りして、少し縁遠い人ともなんとかつてを求めて文通したりして、これらの相手と物語などについて様々に書き合い、取り止めもないことに無聊を慰め慰め、世間に知られるべき人間とは(自分のことを)思いもかけないけれど、さしあたってこちらがはづかしくなるように素晴らしいとか辛いとかいうことだけは身にしみてわかり、それはどうしようもないようなことを、それにしても、余すところなく思い知った我が身の辛いことよ。

 試しに物語を手に取ってみたけれど、以前、見たようには面白くない。ひどいことに、心が通いあって語り合った人も、私をどんなに面目なく浅はかな者と軽蔑しているだろうと思うと、それさえ恥ずかしくて、文もあげられない。

紫式部日記  解説

 「紫式部日記」はそのような題名のもと書かれたわけではありません。彼女が心のまま回記しておいた思い出話を、まとめたものでしょう。ですから「日記」と言いながら、今のものの用意日付を持って書いてあるわけでも、時を追って書いているわけでもありません。時には晴れやかな行事の有り様を、宮仕えの日々の出来事、そしてここのように、退出して実家に帰った時の思いなどを筆のままに書き記したものです。

 年代は寛弘5年あたり(1008年)。ちなみに彼女の主人、彰子中宮の父である藤原道長が三人の后を自分の娘から出した満足を「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を詠んだのが1016年。道長家がピークに上り詰めるその上り調子の真っ最中に描かれています。この日記にも書かれていますように、紫式部の物語制作活動には道長の手厚い保護がありました。本来でしたら、中宮彰子や道長への礼讃で埋め尽くされても良い記録です。でも、そこには孤独な知的女性の姿も描かれているのです。

 当時は「宮仕え」に出る女性、それは当然、中・下級ではありますが、貴族の娘たちなのですが、そのような女性たちを下に見る風潮がありました。今ではバリバリのキャリアウーマンなのですが、一昔前までは「お勤めなの?」といわゆるセレブの家では少し難点と数えていたことがありました。あれと同じです。教養と機転なしには務まらない職場ですが、本当のセレブではないことのあかしなのでした。紫式部は未亡人になってから、道長の今世によって彰子のもとに上がったのですが、自分では劣等感を抱いていました。それはライバルである清少納言も同様でした。そのようなコンプレックスがここでも現れています。

 彰子中宮の御殿に比べると見る甲斐もない我が家、そこに籠もって彼女は宮仕え以後疎遠になってしまった友との文通を思い出します。でも、その根底には中宮のそばで確固とした地位を築いている自分に対する自信もほの見えている感じがします。

 この日記には彼女のそのような境遇を同じくするライバルたち、清少納言、和泉式部、赤染右衛門らに対する評価も出てきます。それを読むと、鋭い人間観察力に唸らされますが同時に「この人とは友達になりたくないな」とも思ってしまいます。その冷徹な観察眼が彼女に「源氏物語」を欠かせたのでしょうが、やはり、友達としてはこちらが二の足を踏んでしまうところがあります。それが紫式部という、1000年以上前に生きた女性を眼前に見るかのように示している、この「日記」の魅力なのでしょう。

 それにしても文学って怖いですね。才女の胸の奥を私たちにあわらにしてしまうのですから。

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